チェルヴィーノの豪快な姿を間近に見ながら、雲一つない青空の下、最高の気分。ペッピでなくても口笛ぐらい吹きたい気分だ。鼻歌混じりで先を行くペッピの後について行く。ペッピはフニヴィアで登る途中も、何回となく知っている人間に出会い挨拶を交わす。イタリアでは、知らない者同士も気軽に挨拶を交わすのはごく当たり前。

イタリア人は、確かに、陽気で愛想もいいユーモアがあるし人を逸らさない。人が和み合う雰囲気をつくり出す名人だ。知らない土地で、知らない者同士でも、くつろぎを感じさせ、うち解けた空気を生み出す天才と言ってもいい。だからイタリアへ行くと、それだけでも気分がいいし居心地がいいのである。

電車に乗れば、隣に座った人と話し込む。もちろんたまたま隣に座った人とである。うっかりすると東洋系の風貌のわれわれにだって、イタリア語で話しかけてくる。身振りも手振りもおおげさで、日本人に比べて実にパワフルだなぁと感じるのだ。

反対に、日本は以心伝心の国、話さずとも分かり合えるということになっている。沈黙は金で雄弁は銀。
「男子、無闇の軽口は慎むべし」
「賢い子は無駄口を利かない」
「人を押しのけ、自分が自分がと前にしゃしゃり出るのは恥ずべきこと」
と聞かされ、カキのように口閉ざし無口に遠慮深く、その割に余りカシコクもなく育ってしまったこちらにすると、イタリア人の表現法は、時にうるさく、浅ましく品がないように思えることさえある。

ところが、時代が変わり鎖国も解けてニッポン人が国際社会にでていくようになると、なにかにつけ
「薄笑い浮かべて何考えてんのか分かんないブキミな奴ら」
と世界中のお叱りご批判をたまわるようになってしまった。これは何とかしないといかんいかんと言って久しいが、今のところ余り進歩はない。

彼らはわれわれとは全く逆に、
「何ごとも話さなければ分からない。しかし、話せばどんなことでも、いつか通じるはずだ」
という真反対の姿勢と信念をもっている人たちなのである。だから、人と人が全身で交信することで毎日時間が足りないイタリア人には、イタリア流挨拶として、これらは全て欠かすことができない。寡黙を良しとしてきた、われわれも少し見習って、無口からの転換を革命的に成し遂げ、すれ違うときの「挨拶」から全身全霊総力的表現による「交信」までを大切にした方がいいように思えるのだ。

考えてみれば、ついこないだまでは、日本もそうだった。今でも地方では知らない人に挨拶する。誰もが挨拶しあう村社会には、悪さする子供がいれば親でなくても叱る大人がいた。未来を担う子供は共同体の一員、皆で教育するのが普通のことだった。今は知らない子の行儀を正すなんて、余計なことするなと怒鳴られるのがオチである。

イタリアではまだ子供が悪さしていれば、関係ない人がびしばしと叱っている光景をよく眼にする。こーいうところが先進国から見ると田舎者と映るのかもしれない。現代の個人主義自己中心主義自分さえよければナンでもいいわよんの風潮からすると、余計なお節介なのかもしれないが、ここらでちょっと取りしつかないよーになる前に、考えてみたほうがいいのではないだろうか。
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