4月30日早暁、アズリッシモのスタート地点には、折から激しさを増す雪の中、短躯を更にかがめ、もがく一人の男が立っていた。ブリコのヘルメットとゴーグルで分かりにくいが、誰あろうそれこそが、馬場平之助その人であった。足元はと見れば、三井物産スポーツの鈴木章が準備してくれた、98/99モデルのラングのブーツミッド61にダイナスターSPEED-SF197cmの板で固めている。装備は世界的水準と言ってよく、カッコだけでも超一流になれたのは恥ずかし嬉しの気分だった。

それに、見よ、オー、この大舞台である。新橋のカラオケボックスで歌ってたら、急にミラノのスカラ座からお呼びがかかって、檜舞台に上がって歌っちゃうようなものである。
「こうなったら、レーシングスーツもイタリアカラーでキメたい。なんとか、足は短くて、腹のまわりがゆったりのスーツを探してくれ」
丁寧に、普段下げない頭も下げて頼んだのに、
「いやぁ、おなかの出っ張った人がレースに出るつーことはあまりないから、そんなとこがでっぱったスーツなんて、ありっこないすよ。がはひはは」
と探す気はテンからなく、取り合ってくれない編集長の加藤雅明が出発前日に用意してくれたあり合わせである。

それでもさすがSJと言うべきなのだろうか、あり合わせとは言え、編集部の床に転がっていたのは、もったいなくもオーストリアチーム御用達のアシックスレーシングスーツであった。

討ち入り装束に身を固め、凛々しい出で立ちで、前方を見据える眼に、秘めた闘志が、静かに燃えているのに、誰も気付いてくれなかった。回りの者全てが、その時、自分以外は誰もいない世界に集団的に没入しているようだったので、無理もないことであった。

あっという間にゴーグルに積もる雪を仕方なく、せわしなく払う。息を吐く度に中のメガネが曇るので、頻繁にゴーグルを外してはメガネをハンカチで拭く。この動作の繰り返しで忙しく、肝心のコンセントレーションになかなかイケないのであった。
「あーあ。なーにやってんだろね。こんな吹雪だっつーのに。こりゃ、イタリアスキーじゃないよね。リタイアすっか。リタイア」
回りはガイジンばかりで分からないだろと、独りでぼやくと、
「ナニ、言ってるんですか。弱音吐いて」
朝からスタート地点で黙々と皆の世話をしていた、アズリッシモ参戦三回目、尼崎市から来た織田雅俊に背中をドシンとどやされた。

織田は去年のヴァルガルデナ、今年のアオスタスーパースキー一緒に滑ったスキー仲間だが、どーも、今考えると、ガルデナでもアオスタでもフィレンツェでも、
「馬場さんアズリッシモに行きましょう。アズリッシモに行かないといけませんよ」
と一緒にいる間中こちらの意識下に催眠術的に働きかけていたようなのである。

背中へドシンで、すっかり迷いが吹っ切れ、突然、デボラ・コムパニョーニのように、目をつぶってコースの状況とポールの設定を思い起こすことに集中できたのである。すると、あら不思議。スタート地点の大回転のポールセッテイングとキロメータランセの地点までは、明瞭にイメージできたのである。だが、よく考えてみると、それは不思議でもなんでもなく、スタート地点からそこまでは、時々、雪とガスの晴れ間に見えるだけなのであった。

細貝威、志賀コパンブランSS校長が4月27日コースを案内し説明してくれたのだが、もっと吹雪いていて、
「こんな日に、ホントに行くのか」
つい言ってしまった程である。上は何も見えない状態で、下りて来るのがやっとだった。

28日は起きたら又降っていたので、アオスタ見物に行き、レース前日29日はすっかり晴れたので、当日も晴れるだろうと、一度滑ったけで体力温存に専念してしまった。これでは、いくらデボラのように目を閉じて集中しても、当然あとは思い浮かびっこない。吹雪にさえぎられる視界と、捉えられない雪面の、真っ白な像しか浮かんでこないのだった。
「スタートの時って、頭の中が真っ白になるんだよな」
誰かが言ってたのを、こーいうことなのかと一瞬思ったが、それもなんとなく違うよーだった。
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表彰台に上ってみました
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アズリッシモ少年の部?に挑んだ勇士たち
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「あなた達はおかしい」写真撮りながら
スキージャーナルの堀切記者は 言った
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