今思えば、一人の脱落者もなくヴァレー・ブランシュ18kmを完走できたことが何よりであった。あの中で一人でも落伍すれば、スノーモービルが雪煙を上げて救出に来る。轟音と共にヘリコプターが飛んでくる。

翌日の新聞には写真入りで記事が載る。紙面に「日本人スキーヤー未熟!ヴァレー・ブランシュで立ち往生」のタイトルが踊る。アオスタのテレビ局だって、取材に押し寄せたにちがいない。なにしろ平和でニュースが欲しい。

「オレは知らないよ」と言ったって、仮にも隊長を名乗る以上逃げられっこない。シドロモドロになりながら、汗だくのイタリア語で、インタビューに答えることになっただろう。途中で、なに言ってるか分からなくなって、

「エー、あー、マコトに、未熟で迷惑をかけてしまったのは、実に申し訳ない。今後、日本に帰ったら日本人はヴァレー・ブランシュに足を踏み入れないよう法改正するけん、堪忍しとくんなはれ」などと口走ってしまったにちがいない。あー、そうならずによかった。

クールマイユールからのヴァレーブランシュ氷河滑降は、かくしてわが脳裏と肉体にしっかりと刻み込まれた。帰国後、剥がれてしまった右足親指の爪も、今はもう完全に再生したが、あの日見たヴァレー・ブランシュは永遠の輝きを放ち、消えることがないだろう。
